
どこかで、聞いたことがある。夜だからオバケが出るんじゃないって。オバケが出るから夜になるんだって。「夜」は人間の目を覆って怖いものを見せないようにしてくれるんだって。じゃあ、本当に、怖いものは?
俺の仕事している地域は大雨だった。憂鬱な気分とともに起きた俺は突然変な感覚に襲われた。まあ、昨日飲みすぎたし、仕方ない。そう結論づけて怠い体に鞭打っていつものように仕事へ向かった。
会社についてからも違和感は続いた。いや、続いたというより、大きくなり続けていった。おかしい。いつもは二日酔いなんてしないのに。何か変な病気でもと心配になり、病院を考え始めた時、一つの閃きが降りてきた。呼ばれているんじゃないか?
なかなかに馬鹿だったとおもう。誰に?どうして?どうやって?今だったら疑問はいくらでも浮かぶ。でも俺はその全てではないが、肝心なところに結論をつけることはできた。実家だ。実家に行かなきゃいけないんだ。誰になんて、どうしてなんて、要らなかった。その日は体調不良を理由に会社を早退し、実家へ電車で向かった。実際体調は悪かったし、嘘ではない。特急に飛び乗り、県境を6個は越えたかというところでやっと降りた。心労はあったが、なにより興奮していた。子供の頃USJに行く時の電車でこんな気持ちだった。ワクワク感、期待。いくつか電車を乗り換え、バスに乗り、何年振りかの実家に着いたころには既に暗くなっていた。
チャイムを押して返事を確認せずに扉をガラッと開ける。いつもこうだ。実家独特の安心感をこの時初めて、そして最後に感じた。最初に感じたのは後悔だった。出迎えてくれたのはお袋で、それはいつもとそこまで変わらなかった。でも、ダメだ。体が警告を発する。おかしい、親だぞ?20年一緒にいた肉親だぞ?しかし自分の感情を変えることは難しかった。
いつもの受け答え、いつもの体の動かし方。でも何かが変わってしまったのはわかった。しかしそれを表には出せない。なにか強迫観念のようなものがあった。この状況をなんとかしなければ、という。いや、違う。確かにそれもあった。しかしそれにかまけていられなかったのだ。俺を呼んでいるのは近いけれど、ここではない。「なに突っ立ってんの。早く手洗いな」そう言われて我に帰った。とりあえず家に上がる。妙な緊張感を感じながら。
「オゥ〜帰ってきたかァ〜」
気の抜けた親父の声で少し緊張が弛緩した。しかし親父がこっちに顔を向けた瞬間、それも霧散した。お袋と同じだ。何かがおかしい。そう思ってもどうすることもできなかった。
「今ご飯用意してるところだからねえ〜座って待ってなぁ」
言葉に甘えて座って待っていたが、妙に落ち着かない。俺の部屋で待っていようと思い、階段を登ろうとした時、声がかかった。
「どこ行くんだ」
低い、芯のある、それでいてどこか怒りと猜疑心のハッキリとこもった声。親父だった。
「ちょっと懐かしくてね、俺の部屋に行こうと思うんだ、けど…」
「そうか」
それっきりだった。しかし、今のはなんだ?明らかにおかしかった。しかしやはりどうにもできない。考えすぎだと自分の感情を抑え込んだ。
俺はどこに行くべきなんだ?行ってどうするんだ?疑問はいくらでも浮かんだ。しかし考えても意味のないことだと心の奥底ではわかっていたと思う。どうせ行くことになるんだ、と。夕飯の餃子を食って風呂に入って、そんないつものルーティーンがどこか愛おしく思えた。
12時過ぎ、布団に入る。しばらく有給はとった。迷惑かけたが、仕方がない。なかなか眠れなくてさまざまなことが頭を駆け巡った。どうして俺はこんなところに来たんだ?俺はこんなところに来て良かったのか?次第にそんなことに変わっていった。罪悪感を感じながらも考え続ける。おかしいんじゃないか?どうして「呼ばれる」なんてことがあるんだ?
そんなことを考えているうちに、意識は冴えてくる。おかしいところはいくらでもある。疑うべきじゃないのか?逃げるべきじゃないのか?呼び声なんて無視するべきじゃないのか?どうして両親は突然の帰郷の理由を聞かなかった?理由を知っているのか?だとしたらなぜ?オカルトなんて信じていなかった。というかオカルトという考えがなかった。しかし、これもやはり心の奥底ではわかっていたんだと思う。俺にはどうしようもできない。逃げる以外できないって。
突然安らいだような、絆されたような不思議な気持ちになった。どうして?その気持ちになった理由も含めて頭は勝手に動き続けていたが。俺は思考を放棄した。幸福感に浸っていた。
瞼が重くなり、もうすぐ意識を手放そうかという時に、視界の端に何かが映った。
次の朝は久しぶりにスッキリした気分で起きられた。
両親は俺を少し寂しそうに、けれども誇らしいような面持ちで玄関まで見送りに来た。
「じゃあ、また来るよ」
心の底から、そう言えた。
そもそもこの集落自体、かなりの田舎だ。田んぼしかない。さらにいけばすぐ山だ。
枝葉をかき分けながら山に入る。子供の頃よく通ったところだ。大人には窮屈だが、まあ仕方がない。しばらく藪漕ぎをしていると感覚が冴えてくる。野生の勘とでもいうのだろうか。また歩き続けると、ある場所についた。いや、なにかがあったわけじゃない。ただ、ここだ、と感じた。そうか、ここなのか。納得感があった。しかしこんなところ子供の頃にあったか?恐怖心なんてなかった。明るかったし、なにより幸福感を感じていた。そのスペースに入る。すこし窪んでいて、そこだけ草が生えていない。特に何かがあるわけでもないが、これまでの人生で感じたことのないような達成感と幸福感に襲われた。
10分くらいだろうか、そこに座っていると、音が聞こえる。チュッチュ、というような高い音と藪漕ぎのガササッ、ガササッというような音だ。何かが近づいてきている、しかしそれどころではないのだ。猪か、熊か。クマだったら嫌だな。イノシシならまだなんとかなるだろ。(普通はならない)特に意味のないことを考えているとそれが少しだけ見えた。ほんの少し、赤黒いようなてっぺんが。1秒にも満たなかったと思う。そこで初めて我に返った。ここにいてはいけない!それを見てはいけない!本能が警告を発していた。もはや幸福感などなかった。しかし、体は動かない。蛇に見つめられたカエルのように、動かそうと頑張るものの自分の意思とは裏腹に動かないのだ。目を瞑りたかった。目が痛かった。体の節々が痛い。そういえば子供の頃はこんなとろに来たことがなかった。裏山に行ってはいけないと言われていたしそれを守っていた。そのはずだ。でも思い出がある。なんだ?なんでだ?裏山に21本ある獣道、頂上より少し手前にある高い杉の木。どうして知っている?来たこともないじゃないか。大事なことを忘れてはいないか。そんなことが数秒で頭を巡った。
弟は?
藪の中から、それがぬっと顔を出した。なにも、なかった。
這々の体で駅に着くと、終電はとっくに行っていた。駅員もいない。俺はまたそこで意識を失った。
気がつくと東の空が白み始めていた。涙が出た。どうして俺が。どうして今。俺の家族は。様々なことが頭にあったが、何も考えられなかった。
始発の電車に乗って東京に帰った。
家に帰ってからも何もできなかった。布団にくるまって震えていた。なにをするでもない。腹が減ったら家にあるカップ麺を食って過ごした。会社からも電話が何回もなっている。2日前に申請した有給はおわっている
そしてもっと嫌だったのは、そんな人たちの背中にソレが付いていたことだった。
ここでやっと心霊体験だということに気づいた。オカルトなんて信じていない、というより考えてすらいない。しかし、そう考える以外なかった。俺は逃げ場を探していた。
それがオカルトだと気づいてからは少し気が楽になった。こういう時、怖い話ではどうしている?お祓いに行こう!さほど働いていない頭でそう結論づけ、近くの神社に行った。もちろん相手にされなかった。
「なんか変なのが見えてですね…」
「変なのと言いますと?」
「あの、なんていうんでしょう、人みたいな形をしているんですけどね、こう頭とか四肢の端々がなくて窄んでまして、それで赤い、いや赤黒い感じでですね…」
「それで?」
「あの、お祓いとかって…」
「申し訳ありませんが、ここではそういったことは行なっていおりませんで、私が思うに、気の持ちようではないかと。あんまりだったらお医者さんに相談するのがいいんじゃないでしょうか。」
いくつか行ったが、どこも同じようなものだった。
しかし提案された一つが気に入ったので採用した。海外旅行だ。海外に行って戻ってきたらいつも通りになっているんじゃないかって。家族もまた そんなことに意味はないんだ 会えるんじゃないかって。そう信じたかった。しかし、ソレは俺を逃してはくれなかった。少ない貯金をはたいてイギリスに行ってきた。いや。それ自体は良かったと思う。大英博物館もバッキンガム宮殿も素晴らしかった。イギリス人の背中にソレが付いてなければ。
分かっている。行ってはいけない。命を投げ出すようなものだ。いや、もっと酷い。あれは怨念なんて生易しいものじゃない。今生きている世界中の全ての人たちの憎悪を集 俺は全く理解していない めてもあそこまでにはならない。
あってはならないものだ、いてはいけないものたちだ。ソレは普通人の背中についていて、見る方が悪いんだ。
特急に飛び乗り実家に向かう。まだ実家に遠いが、わかる。彼らは俺を暖かく迎えてくれる。俺の居場所はあそこにある。行かなきゃいけない。 絶対に行っちゃいけない 行かなきゃいけない。行かなきゃいけない。行かなきゃいけない。行かなきゃいけない。行かなきゃいけない。行かなきゃいけない!
どこかで、聞いたことがある。夜だからオバケが出るんじゃないって。オバケが出るから夜になるんだって。「夜」は人間の目を覆って怖いものを見せないようにしてくれるんだって。じゃあ、本当に、怖いものは?
ー昼だー
昼は否応なしに現実を突きつけてくる。俺はそんな昼が嫌いだ。あそこだった昼なんてない。
これが望んだことか?それは絶対に違う。俺にも理性が残っているんだろう。それはわかる。しかし同時にこれもわかる。それが今の俺にできる最善手だ。
ああ、楽しみだ。



















